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大逆事件百年後の意味 院内集会

2011年1月24日(月)参議院議員会館講堂にて

参加国会議員:福島みずほ議員(呼びかけ人)、今野東議員(呼びかけ人)、松野信夫議員、神本美恵子議員、玉置公良議員、田城郁議員、前川清成議員、武内則男議員、平山誠議員、山内徳信議員、中川治議員、服部良一議員、吉田忠智議員、阿部知子議員、辻恵議員。国会議員15名一般参加約300名。


○開会あいさつ - 福島みずほ

百年前の今日1月24日は、幸徳秋水さんたち11名、明日は管野スガさんが処刑された日にあたります。この日に、政治弾圧のこの事件の意味を国会でこそ語り合いたい、と企画した集会に、こんなにたくさんおいで頂いてありがとうございます。
死刑執行の二週間前に当たる1月10日、幸徳秋水さんが、若い弁護人、平出修さんに宛てた手紙の中でこう書いています。「今回、事件に関する感想をとのことでしたが、ことここに至って、今はた何をかいわんやです。また、言おうとしても言うべき自由がないのです。想うに、百年の後、誰か私に代わって言ってくれる者があるだろうと考えています。」
資料中にありますが、96歳になられるむのたけじさんからも「歴史を見直そう」とのメッセージを頂きました。和歌山、岡山、高知からもすばらしいメッセージを頂いております。本日は、このあと、鎌田慧さん、「大逆事件の真相をあきらかにする会」世話人の大岩川嫩さんからお話を頂き、その後、リレートークで、朝日新聞の「人脈記」で大逆事件を書いておられた早野透さんはじめ、いろいろな方にお話いただきます。本日は、和歌山から佐藤春夫記念館長の辻本雄一さん、刑死者慰霊塔のある新宿区富久町町内会のみなさんも来て頂いております。いろいろな場所で、いろいろな思いを持って活動しておられる方たちの点が、本日の集会で面となって広がればいいなと思っております。

では、鎌田慧さんからお話を頂きます。鎌田さんは、1月下旬から「週刊金曜日」で、大逆事件の冤罪者で戦後になって再審請求をした坂本清馬の連載をされるご予定です。

○講演 - 鎌田 慧

本日は福島さんからお話があってうかがいましたが、お電話からは、百年にあたって国会で何かやりたいという思いがひしひしと伝わって来ました。単に百年を記念するというのではなく、これからの百年を、この事件を契機にどう反転させていくか、今までの百年間にはたしてどれほど大逆事件を総括してきたのか、そういうことが問われるべきでしょう。今日は国会で議員の皆さんもまじえての議論です。民衆のために、今の日本の司法を、検事を、検察制度を変えていく、司法改革の出発点として位置付けられれば、との思いで、私も参加させていただきました。
「週刊金曜日」には今週から1年、大逆事件の無期懲役者として最後まで生き残った坂本清馬をとりあげて、彼の生涯をとおして大逆事件を精査する連載を始めます。坂本さんは幸徳秋水の書生であった高知出身の青年ですが、容疑事実は、全国を回って「決死の覚悟」でやる人間を捜しに行った、というもので、さらにとってつけたように爆弾の研究もしていた、となっています。犯罪事実が全く不明確なまま、死刑を宣告されたわけですが、翌日、無期懲役に減刑され、秋田監獄で18年刑に服し、故郷の高知の監獄に移され、23年ぶりに仮出獄します。戦後1961年に再審請求をし、65年に高裁、67年に最高裁で棄却され、1975年の1月16日に89歳で中村市、今の四万十市の病院で亡くなりました。中村市出身の大逆事件研究家、山泉進さんに協力して頂いています。坂本清馬さんのお墓は、ご自身の希望だったそうですが、幸徳秋水一家のお墓がならぶ端に、遠慮がちに立っています。大逆事件の取り上げ方はいろいろあると思いますが、私は、幸徳秋水の関係者であったということだけで死刑を宣告されることになった、坂本さんを取り上げてみました。
その時代は、日露戦争から朝鮮併合に向かって、国内の徹底的な弾圧が行われていました。中国への膨張政策、国内での締め付け、という内外の状況下にこの事件がデッチ上げられました。幸徳秋水は「万朝報」で反戦記事を書いていましたが、社主の黒岩涙香が戦争擁護論にまわったため、堺利彦と共に、「万朝報」を辞めて「平民新聞」を起こしたわけです。「平民新聞」は、資本論の翻訳、戦争反対論、トルストイの平和論など、反戦平和を掲げていましたが、弾圧によって消えてゆかざるを得ませんでした。当時、一貫して反戦の旗を掲げた幸徳秋水を中心に関係者が一網打尽にされたのがこの大逆事件という、とてもわかりやすい話ですが、幸徳秋水や彼を支えた人たちのヒューマニズムと反戦の思想が、これからもっと明らかにされ、継承される必要があると私は考えています。「朝鮮併合」との関係で言えば、この大逆事件当時、すでにそのさなかにありましたし、後に大杉栄が虐殺されたときの関東大震災、6千人とも言われる朝鮮人大虐殺は、朝鮮での3.1運動と大弾圧、虐殺に対する支配層の恐怖が引き金であったと言えます。翌年には大逆事件と同様の、天皇狙撃のフレームアップ事件が起きます。朝鮮を主要な契機として、日本がアジアに膨張してゆく時期の国内弾圧という性格が極めて明確です。
 もう一つは新宮の大石誠之助さんや高木顕明さんたちなどの部落解放運動に対する弾圧でしたが、これらの人々は、当時「首魁」と称された幸徳秋水のもとに党派を作っていたわけではなく、個人的なつながり、面識があったという程度の人々を一網打尽にし、重刑に処したのです。検事としては、平沼騏一郎(のちに検事総長、司法大臣、首相)と小山松吉の役割が明確でしたが、検事、特に検事総長が巨大な権力を握り、政治に君臨し、政治を牛耳っていたのが明らかです。
単に社会主義を信奉するというだけで死刑に処せられたのですが、平沼は回想記で特赦による減刑について書いていますが、天皇暗殺の容疑者を天皇が特赦というのは、温情というよりも、それだけ根拠がなかったということだと思います。しかも、陰謀に参加したかどうかはわからない者もいたが死刑にした、ということを平沼は公然と述べています。管野スガに対する取り調べの記述からは、罪のないものを徹底的に陥れるやり方であったことがうかがえますが、百年たった今も同じようなことが行われているわけです。村木さん事件で明らかになりましたが、冤罪での証拠改ざんはこれまでも無数にあったのです。「大逆事件」は百年前に終わったわけではなく、連綿として日本の司法の中につながっています。戦前の横浜事件や、近くは立川の自衛隊基地での反戦ビラ事件もそうですし、連綿として、平沼のような思想検事が存在し、思想弾圧をしているのです。しかし、思想検事や司法制度、内閣調査室などを変えようという運動がありませんでした。村木さん事件での検事の捏造は「前代未聞」と言われましたが、そうではなく、検事の思想弾圧は今までの百年間続いており、日本で一番民主化が遅れていたのが司法界です。それをどう変えていくのか、冤罪者の名誉を回復していくのか、が今日の院内集会の意味だろうと思います。ご意見をうかがいながら、私も司法改革への明確な視点を作っていきたいと思います。

○国会議員挨拶
今野東:参議院議員の今野東です。百年前の大逆事件を改めて見てみますと、今もなお、こうした体質が警察・検察の中に連綿として続いている、村木さん事件にまでつながっていると思います。検察は村木さん事件については、検証委員会を作り、先日報告書も出ましたが、検察側がほんとうに自分たちの体質も含めて改革・改善してゆかねばならないと考えるのならば、この大逆事件の検証からしていかなければならないと思います。そうした方向に向けて、本日もこれだけ大勢の国会議員も見えていますので、そういう方向でがんばりたいと思います。

ほか10名の国会議員の方の発言がありました。

○講演 - 大岩川嫩(「大逆事件の真実をあきらかにする会」世話人)

 「大逆事件の真実をあきらかにする会」世話人の大岩川嫩です。私は、1957年に大学を出たばかりの頃から日本近代史研究の一環として大逆事件に首をつっこみ、1960年に「大逆事件の真実をあきらかにする会」が発足したときからの会員です。
 大逆事件の大きな背景や細かい経緯については、時間もありませんので省きますが、この事件で刑死したり長く苦しんだ人たちの多くは、今から考えるとほんとうに若い人たち、それも日露戦争後の日本社会の矛盾にめざめた若い人たちでした。幸徳秋水や、無名の地方の青年たち、国民の中でも一番良心的な人たちが、このフレームアップの網にかかって、刑死、投獄、獄中での病死や自殺という方もあり、終戦当時に生き残っていたのはたった4人でした。その中で再審請求をした坂本清馬さんも司法の壁に阻まれました。このようにして殺されたり、踏みにじられ、遺族までも世間の目をはばかって生きねばならなかった人たちがいたというのが、日本社会にとってどのようなことであったかを50年間、考えてまいりました。
 会発足以来半世紀、今年、会の『ニュース』も50号を出しましたが、その出発点は大逆事件から50年後の1960年を迎えるので、これをどうしようかとの相談から始まりました。参加者もまだ一部の研究者くらいでした。さかのぼれば、言論の自由のなかった戦前でも、網にかかるかもしれなかった沖野岩三郎のような人たちが事件はでっちあげだとの確信を周囲に伝える、そういう地下水脈のような流れに触れた人たちはいました。とくに神崎清さんという作家が明治文学の研究から関心を持たれ、資料を戦争中から集めて、戦後に畢生の仕事としてかかわられるようになりました。さらに、再審請求の中心となった森長英三郎弁護士や戦後に研究に入った人たちとでその意欲のある坂本清馬さんがご存命中に事件50年を期して再審請求をと、まず1960年1月に講演会を行いました、そのときにお配りしたのがこの赤い表紙の小さなパンフレット『大逆事件――その真実の追究と再審請求のために』です。私は準備会の下働きとして、パンフレット中の二十六被告略伝や事件関係年表作りを致しました。太田薫議長がおられた当時の総評が10万円を拠出して応援して下さり、それをパンフ作成や、国労会館での最初の講演会の費用にあてたのです。
こうして1960年4月に正式に「大逆事件の真実をあきらかにする会」が発足しました。このように、会のもともとのなりたちは再審請求の支援のためで、主なメンバーは秋水の地元・高知県選出の参議院議員で初代事務局長となった坂本昭さんをはじめ、森長英三郎さんら弁護士の方々、これを支える神崎清、絲屋寿雄、塩田庄兵衛、大原慧等々の研究者たち、そしてそれまでひっそりと暮らしておられ、やっと連絡のついた遺家族の方たち、さらに超党派で結集した支援者の人々でした。
 昨年が事件勃発後100年、今年が刑の宣告・処刑から100年です。捕えられて刑を宣告された中には、大逆罪で死刑を宣告された24名のほかにも、頼まれて物を調達したに過ぎない、新田融や新村善兵衛のような人たちもいました。さきほど鎌田さんが触れられた検事の平沼騏一郎は、戦後になって1953年の雑誌『改造』に掲載された「祖国への遺言」で、さきの『平沼騏一郎回顧録』よりも詳しく判決時の状況を述べています。桂首相から事件については(死刑判決は)間違いなかろうな、天皇からの恩赦をするについては、まず判決を知りたい、と言われ、「主文だけ」ということで判事も了承して、判決の事前漏洩という法律違反を犯しています。そして判決当日には、平沼は侍従長室に桂首相とともに待機していて、判決の発表と共に天皇の恩赦の措置をとって翌日に発表、という段取りと筋書きでした。こんなとんでもない法律違反をして準備を整えていたことを、戦後でさえ堂々と自慢話にしています。これが当時の権力の実態で、読むたびに怒りに震える思いがします。
 さて、事件後百年で、日本の社会はどう変わってきたでしょうか。当時でも、この事件はでっちあげ、権力によるひどい弾圧だと見抜いていた人たちはいました。しかし、例えば、弁護人の平出修から聞き知っていた石川啄木が書いた記録は、戦前の全集には掲載されず、伏せられていました。「ココアの一匙」とか「墓碑銘」といった詩は、啄木没後の『啄木遺稿』に入っていますが。他にも、戦後文化勲章をもらった永井荷風も、大正8年作の小説「花火」の中で、自分はこの事件が\"思想(弾圧)問題\"とわかっていたが、ドレフュス事件のゾラのようには声をあげることができなかった、と書いています。表立って声をあげた人としては、徳富蘆花がいます。蘆花は、一高弁論部に招かれての講演「謀反論」で「自分自身は熱烈な天皇主義者だが、こうしたやり方はひどい、天皇の徳を汚すものである。新しいものは常に謀反であるが、謀反を恐れるな」と演説しました。このために当時の一高校長新渡戸稲造は始末書を出し、弁論部長は譴責を受けることにもなりましたが。今村力三郎、平出修などの弁護人たちはもちろん事件の虚構性を認識していました。平出修氏は「後に書す」で、自分は何もできないが、真実を知っていると書き、数年後、雑誌『太陽』に「逆徒」という小説を発表しましたが、たちまち発禁処分となりました。文芸評論家の内田魯庵も処刑の当日、自宅で和田英作、黒板勝美など知識人の友人たちと事件を批判的に話題にして克明に書き残しましたがこれは発表されず、自筆草稿として1970年代の終りに国立国会図書館で発見されました。神崎清さんの大作「大逆事件」刊行時にはまだ発見されておらず、このことはあまり知られていないと思います。このように、戦前に書かれたものは、戦後かなり経たないと出て来ず、また、被告らの獄中手記は全て官憲にとりあげられ、隠匿されていましたが、これも、やはり戦後に初めて日の目を見ました。この「獄中手記」は事件の真実を知るためには非常に貴重なもので、私が事件に深い関心を持ちましたのも、それを読んでからでした。
 戦後の再審請求は、1967年の最高裁での棄却で司法的には有罪のままで決着がついたことになりました。しかし、昨年刊行された作家・夏樹静子さんの『裁判百年史ものがたり』のなかで、第16代最高裁長官の島田仁郎さんは、現在の研究成果を踏まえての夏樹さんとの対談で、「これは司法の負の遺産である」と認めています。
現在、私ども「あきらかにする会」は、日本近代史上の、国家権力による思想弾圧のための大きなフレームアップ事件だったという真実をひろく社会に知らせるとともに、犠牲となった人たちの名誉回復、市民的復権を図ろうという市民運動と連携することに軸足を移しています。名誉回復のめざましい動きは、3人の僧侶の犠牲者を出した仏教界、6人が連座した紀州熊野の地、幸徳秋水のふるさと土佐中村などにみられ、自治体としては高知県中村市議会で幸徳秋水の顕彰決議を2000年に可決、和歌山県新宮市議会でも、紀州関係の6名の名誉回復と顕彰を2001年に議決し、また指導的地位にいた大石誠之助さんを名誉市民にという運動の途中です。
 このような大逆事件被告の名誉回復、人権回復は、反面、誤った認識で大逆事件犠牲者を疎外してきた日本の国民全体の名誉回復、人権回復につながるものでなければならないと考えています。
もう一つ最後に申し上げたいのは、被告中のただ一人の女性であった管野須賀子のことです。この人は女性であるがゆえの性差別の見方を長く受けてきました。時間がありませんので、お手許にお配りした「管野須賀子の人間像」(『彷書月刊』2008年2月号)をお読みいただければと思います。彼女は決して魔女でも妖婦でもなく、あの時代にいっしょうけんめい生きた結果があの事件につながった立派な人でした。
私たちは改めて、自分たち自身の人権回復のためにも大逆事件のことを考え、若い人たちに語りついでいきたいと思っています。

司会(福島みずほ):どうもありがとうございました。今日は、幸徳秋水さんの堺利彦さん宛て書簡のレプリカをお持ち頂いています。堺利彦さんについては、昨年、黒岩比佐子さんの「パンとペン」というすばらしい評伝が出ています。
 メッセージは、岡山、高知、和歌山からそれぞれと、96歳のむのたけじさんから寄せられています。お手元にお配りしています。むのさんのものを読ませて頂きます。
 では、次にリレートークに移ります。


○リレートーク  早野 透(桜美林大学教授、元朝日新聞記者)

 私は朝日新聞でずっと永田町の権力の攻防を取材して来ましたが、最後に、権力になびかず、自分の意思・思想・情熱を貫いた人たちのことを書きたいと、大逆事件を「ニッポン人脈記」に書きました。生き字引のような大岩川さんにはいろいろうかがいました。私は昨日、岡山で森近運平の墓前祭とシンポジウムに参加して来ましたが、その集会で朗読された、森近の家族宛の手紙は、私の死をいたずらに悲しむな、いつか歴史家が真実を明らかにしてくれる、と述べていました。家族達の大逆事件もあったな、と思った次第です。森近はもともと農業技師でその後、大阪平民新聞の記者をしたあと、故郷に戻って温室栽培などの先駆的農業に携わっており、なぜこの人が連座したのかと思うような人で、当時、地元では助命嘆願も行われました。当時の強権体制の中では勇気のいることだったと思います。
 新宮からは、熊野新聞社から「大逆事件と大石誠之助」という本が出ました。朝日、読売などの大手全国紙は大逆事件のことなどほとんど報道しませんが、私のかつての同僚の小村滋君がいる熊野新聞では、6年にわたり、延々と書き継がれています。冤罪もですが、問題は、何が弾圧されたかということです。新宮では、遊郭を作ることへの反対運動とか、被差別部落の問題があったりして、大石さんをはじめとしてそうしたことにかかわる人たちの「優しい心」が弾圧されました。単に冤罪というだけでなく、国家、歴史、自由、人間の情熱、人間の栄光と悲惨の物語であり、国家と司法の結託した国家犯罪の物語です。で、それに誰が抵抗しているのかというと、政治家ではなく、地元の単なる市民たちが、名誉回復のために運動しているのです。これまで政治は何をしてきたのでしょうか。

○リレートーク  中森 明夫(作家)

 ぼくは普段、アイドル、サブ・カルチャー、オタク、などのことを書いているのですが、最近、「アナーキー・イン・ザ・JP」という小説を出しました。現代の17歳の少年の頭の中に、百年前の大杉栄の霊が乗り移る、というものです。その中に、「大逆事件なう」という、大杉が少年に事件のことを語る話があります。大逆事件について書かれたもっともふざけた話かもしれません。一種、冗談に満ちたもので、最後の場面で、政治家のパーティーに、大逆事件で処刑された人たちが踊りながら出てきたり、管野スガさんの霊に対して「テロかっこいい」などのフレーズを使ったり、大杉栄が「平成」の年号について「平民社のように成ったのか」ときいたり、「インターネット」について「インターナショナル・ネットワーク、社会主義者の世界同盟が成立したのか」と喜ぶ、というようなものです。でも、今、大杉、幸徳が生きていたら、きっとインターネットでウィキリークスとつながると思いますし、フェイスブックがチュニジアの政権を追い込んだりしています。
 最近の若い人たちは、大逆事件とか大杉、幸徳のことはほとんど知りません。忘れられています。まじめな人たちはまじめに伝えてきたと思いますが、それでは伝わりきらないものを、軽薄、冗談、不真面目の力で伝えたいと思います。それこそ、平民新聞を読めばわかるように、大杉・幸徳たちもまじめ一方の人たちではなかったと思うのですが。もちろん、真面目さにも敬意を払いますが、それだけでは忘却の力に抵抗できない、あえて、物語の力を使って軽薄な周囲の若者たちに伝える、という共闘をしてゆきたいと思います。

○リレートーク 3 辻本 雄一(新宮市立佐藤春夫記念館長)
 お手元に、「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」の二河通夫(にこうみちお)さんのメッセージがあると思います。昨年6月に新宮で「闇を駆ける希望」というシンポジウムを行いました。新宮は東京から今でも6時間、と遠いのですが、ここからも6人の犠牲者が出ました。大石さんはじめ、いずれも地元で生きていた人です。私はもともとは佐藤春夫の「愚者の死」などの研究をしておりましたが、市民運動のうねりの中で、市議会での決議に向けての議員の説得や、「志を継ぐ」という顕彰碑の建立にかかわりました。この言葉は私が選んだのですが、大逆事件にずっとこだわっていた中上健次、私は彼と一緒に熊野大学をやりましたが、彼は、冤罪と言ってももうはじまらない、志を継ぐのだ、と言っていました。彼は志という言葉が好きでしたし、いい言葉だと思います。また、現在、大石さんを名誉市民にする運動があります。なぜ一人だけ、とか、名誉市民は体制化だ、とのご意見もありますが、若い人に語り継ぐための方法として名誉市民としてとりあげていきたいと考えていますが、まだ、実現しておりません。また、本日、大逆事件の犠牲者を顕彰する会副会長で日体大名誉教授の正木健雄さんもお見えになっていることをご報告いたします。

○リレートーク 4 玉木さん、湯浅さん(新宿区富久町中町会)
玉木さん:私どもの町の富久児童遊園には、昭和39年に、日弁連の円山会長が奔走され、旧市谷監獄での290名の刑死者のために慰霊塔が建てられました。昭和40年からは、今年で46年になりますが、日弁連と共催で毎年、秋の彼岸の中日に供養を行っております。現在ではかなり有名になり、地区の歴史的な名所となりましたが、今後もしっかり供養をしてまいりたい、と地元での一助をご披露いたしました。

湯浅さん:私は戦争直後の昭和21年に富久町に引っ越してまいりました。現在の碑のあるところは、当時は空き地で殺伐としていましたが、いつのまにか、ご近所の方たちが卒塔婆のような木碑を建てられました。それを掃除などして守っておられたのを、弁護士会が立派な碑に直してくださったわけです。町の人間は毎年、お彼岸に近くのお寺の尼さんに頼んでお念仏をあげて頂き、最近では、自分達での供養となっていました。その際、僕たちはテントを張ったりと設営をしますが、出入り口に近いので通行の人から、犯罪者の供養なんてと言われたりします。でも、大逆事件の人だけでなく、あらゆるここで亡くなられた人の供養だと説明しますが、なかなかわかってもらえません。難しいですね。

司会交代 福島みずほ → 早野透


○リレートーク  安田 好弘(弁護士) 
 今日は死刑と大逆事件について考えてみたいと思います。1989年に国連で死刑廃止条約が採択され、現在では世界の2/3以上の国で死刑が廃止されましたが、日本は今でも続いています。裁判員裁判が始まってまだ2年も経たないのに、すでに3件の死刑判決も出ました。執行方法も大逆事件の頃と変わっていません。旧刑法下では、大逆罪は死刑しかありませんでした。共謀も死刑になりました。裁判も大審院一審のみでした。大逆事件は、一回きりの裁判で死刑しかない刑罰が適用されたわけです。
なぜ、日本で死刑が廃止されないのでしょうか。日本では、他国と違って、死刑廃止に反対する強力な政治的集団があるからです。それは法務・検察です。なぜ、彼らが死刑に反対なのか。ルーツは大逆事件にあると私は思っています。当時の松室、平沼などの検事は大逆事件のでっちあげによって大変な報酬と地位を得ました。しかし、彼ら個人だけでなく、検察庁がこの事件を契機に、裁判所構成法を変え、検事総長を、司法大臣や大審院長と同格にまで揚げて、検察の絶対的優位、司法行政支配を確立しました。死刑によって優位を得て、現在もなおその地位は生きており、法務検察行政をその手に握っています。大逆事件で死刑を政治的に利用したことがこの地位の始まりでした。彼らは政治に口を出しもします。
私は、検察を司法・法務行政から排除し、検察は検察だけの仕事をすべきだと思います。これが死刑を廃止する為の流れであるし、二度と大逆事件のような事件を起こさせない道だと思います。私たちが大逆事件の意味を理解するなら、今の日本の検察の役割を根本的に見直す必要があります。今の改革をまやかしに終わらせず、検察を政治の場から放逐し、法務・司法行政から排除する、これを実現して、民主的司法が実現されると思います

○リレートーク  藤原 智子(映画監督)
 私はライフワークとして、戦争と平和、そして、迫害と平等、そういうものをテーマにして大杉栄の娘の映画「ルイズ その旅立ち」を作り、それから、日本と関係の深いベアテ・シロタさんをとりあげて「ベアテの贈り物」と「シロタ家の20世紀」という映画を作ってきました。今度、大逆事件をテーマにした映画を撮ることになり、昨日岡山で開催された森近運平さんの墓前祭も、「シロタ家の20世紀」の編集をしていただいた女性監督・田中啓さんに取材をお願いしました。今週末の29日には、これは毎年参加している管野スガのお墓のある正春寺で、「あきらかにする会」主催の追悼集会にうかがいます。それから30日には日仏会館で催されるイベント、フランスの国民を二分する大冤罪事件・ドレフュス事件と大逆事件をテーマにする国際シンポジウムをも取材します。活字文化に対してより大衆的な映画を通して、大逆事件百年の意味を次の世代に伝える役割を果たしてゆけるのではないかと思っています。

○リレートーク  木村 まき(横浜事件の被告木村亨氏の妻)
 夫、木村亨は横浜事件のもと被告でした。彼は新宮の生まれで、祖母は大石誠之助の患者で、亨は小さい時に、自分の祖母からあんないいお医者さんがどうして殺されなければならなかったんだろうね、という言葉を何度も聞いて育ったと言っていました。その木村が27歳になったとき、中央公論の編集部で働いていましたが、第二の大逆事件という方もおられる横浜事件に連座することになりました。夫が1998年に旅立ってから、私が裁判を引き継ぎ、2003年に横浜地裁で再審開始決定をとりましたが、それはほんとうに画期的なものでした。2008年に最高裁で免訴判決が出て、裁判への道は最終的に閉ざされましたが、そのあと、刑事補償請求をしまして、補償は公表されました。横浜事件は国内の反対勢力への弾圧として大逆事件と共通しています。木村亨がめざしたのは、裁判に勝って、日本人の人権宣言にしたいと、個人の被害者の名誉回復にとどまらず、日本の臣民ではない人間宣言にしたいということでした。そういう大きな夢を持っていたことをお伝えしたいと思います。
 なお、さきほど、新宮の辻本さんが話された顕彰碑ですが、私も除幕式に参加し、辻本さん起草のレリーフの言葉に大変感銘を受けましたので、それもご披露したいと思います。「熊野独特の進取の精神や反骨の気風のなかで、平和、博愛、自由、人権の問題においては、むしろ時代の先覚者であった。こうしたかれらの志は、いま、熊野に生きるわれわれにも当然受け継がれるべきもの、受け継がなければいけないものと確信する」というものです。
 なお、私も評議員をしております丸木美術館で1月22日から大逆事件の特別展をしておりますが、メインは被害者の肖像のある迫力ある屏風絵です。遠いところですが、お運びいただければ幸いです。また、かつて福島みずほさんが、法務委員会で横浜事件について鋭く追及して下さったこともありがたく覚えております。

○リレートーク  クリスティーヌ・レヴィ(ボルドー第3大学教授)
 今月の30日に日仏会館で「幸徳事件とドレフュス事件 歴史的意義と民主主義的争点」というテーマで、大逆事件百年記念のシンポジウムをします。大逆事件というよりも幸徳事件とした方が、幸徳秋水という人物を狙った冤罪事件だということがはっきりすると思います。幸徳秋水は、その著1901年の『廿世紀之怪物帝国主義』で、まだ若かった彼は、ゾラ、そしてトルストイ、ベーベルなど世界のインテリの名をあげています。ゾラがなぜそれほど有名であったかはやはりドレフュス事件でしょう。フランスでは、ドレフュス事件でインテリ、つまり、公共に対して忘れられた人、抑圧された問題を提起してゆく層ができたと言われています。中国侵略について「万朝報」で幸徳秋水がいろいろ訴え、山県有朋がそれを敵視した、そのときから幸徳秋水は死刑に処すべきと思われていたので、反帝国主義を唱える者への弾圧が始まっていました。日露戦争での反戦論者、堺利彦と共に「万朝報」を辞めて「平民新聞」を起こして反戦を貫いた人たちであることを強調したいと思い、かつ、改めてフランスの歴史の中でのドレフュス事件、歴史の中での反ユダヤ主義、これは部落民への差別ともつながると思いますが、そうしたことを考えたいと、企画を立てました。

○リレートーク  大杉 豊(大杉栄氏の甥)
 大杉栄は関東大震災直後の9月16日に、私の父が鶴見に避難していた、その見舞いの帰途に陸軍憲兵隊に虐殺されました。大正の時代を切り拓こうとしていた大逆事件は司法により、大杉は陸軍による虐殺でした。大杉は、赤旗事件という、赤旗を振って街頭を行進したというだけで、二年半投獄されていました。そのために堺利彦らも大逆事件を免れたわけですが、出獄が明治43年末で、死刑を知って遺体を引き取り、遺族の慰問旅行をするなど、その後、短い人生ですが、大逆事件を背負って生きていました。私は一昨年、大杉のことを『日録・大杉栄伝』という本にまとめましたので、ご興味のある方はお読みください。

○リレートーク  中村 文雄(大逆事件研究者、著書に「大逆事件と知識人」)
私は30年程大逆事件をかじり、事件については10冊ほど本を出していますが、ようやくそれで、「真実をあきらかにする会」の主だった人たちの50年前の認識に到達したか、と思われるほど、この事件の奥は深いです。そして、天皇制の問題があります。法務省、当時の司法省のあり方にも関心がありますが、本日はほとんど触れられない天皇制について、かいつまんで触れたいと思います。私が今調べている大正時代に、大逆事件の弁護士であった今村力三郎は、その著「芻言」の中で大逆事件と虎ノ門事件をとりあげて、徹底的に国家権力を批判し、判決は問題であったとして、当時、政府の要職にある人たちに訴えもしています。大正13年ごろ、治安維持法の公布された年で言論の圧迫されている時期です。そのことについて、ようやく今村の『法廷五十年』という本をみつけて読み始めているところです。ひとつ、その中にありますが、伊藤博文らの作った戦前の大日本帝国憲法第23条には、「日本臣民ハ法律二依ル二非ズシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」との条文があります。この一文に照らしても、法律無視、拷問、でっちあげ、と、大逆事件は国家権力の暴力です。これを行った検事らは多額の報酬を得て、その後、司法官僚にのしあがっていきます。好きなようにやっている、これが現在の法務省の前身ですね。明治憲法を擁護するわけではありませんが、いいところはあるのです。しかし、逮捕監禁された者は、訴える先が全くありませんでした。幸徳秋水の三人の弁護人に宛てた「陳弁書」には全て書かれていましたが。天皇制は、戦後世代の主要な関心事ではなくなりましたが、戦前には、日本人の政治生活と精神生活において決定的な重さを持っていたわけです。天皇制は支配階級と地主の利害を合わせて代表し、強大な軍隊と警察を持って武装し、膨大な官僚機構を持って人民を統御する、極めて野蛮で侵略的な性質を持った政治制度です。ですから、ここから、こういう事件は必ず起きるわけです。自由民権運動も、警察だけでなく、軍隊を動員して弾圧されました。そういう天皇制が大逆事件を引き起こしました。このことについて、もっと研究を深めていこうと思っています。


○閉会あいさつ - 早野 透
解放同盟の方なども含め、もっといろいろな方のお話をうかがいたかったのですが、大逆事件を引き継ぎ、現在に活かすために如何なることができるか、この会を出発点に考えていきたいと思います。本日はご参会ありがとうございました。


寄せられたメッセージ

○ むのたけじ(ジャーナリスト)

明治維新以降の日本の歴史を、国定教科書を裏返しにした角度から洗い直し、見つめなおす。

この作業を進めよう。

このことによって、希望に満ちた人間集団の日本社会が実現されていきます。

一緒にがんばっていきましょう。


○    「大逆事件」百年の催しへのメッセージ ・・・
「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会 会長 二河通夫


 2010年6月、熊野新宮で「闇を翔(かけ)る希望」が開かれ、地元も交え全国から600人ほどの参加者がありました。10年前にも同様な会が開かれ、それをきっかけにして、わたくしどもの会が生まれ、市議会での6名の犠牲者に対する名誉回復宣言が、全員一致でなされました。さらに、「志(こころざし)を継ぐ」碑の建立へと展開しました。
 現在、運動として取り組んでいるのが、6人の犠牲者の象徴的な存在としての大石誠之助を、「名誉市民」に推挙しようという運動です。現在名誉市民として顕彰されている、佐藤春夫や西村伊作、さらには中上健次など、彼らが誠之助から多くの恩恵を受けていることは間違いがありません。熊野新宮での人権や文化を考える、その出発点として、誠之助の生き様やその先駆的な主張に改めて思いを致そうというものです。
 かつて、精神的に高い志を持って生きていた人々が、この熊野の地に居た、そうして権力の犠牲となった、その証しを後世まで語り継ぐことによって、わたくしたち自身も勇気を振るい起こす糧(かて)にしてゆきたい。
 地方が完全に疲弊してゆくことについては、この熊野の地とて例外ではありません。せめてそのことへの異議申し立ての意も込めて、彼らがめざした平等や平和の精神を、わたくしどもの矜持(きょうじ)ともしたいものだと思います。
 「大逆事件」百年の催しへの連帯の挨拶とともに、御盛会を祈念いたします。

2011年1月24日  和歌山県新宮市 「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会 会長 二河通夫


○幸徳秋水を顕彰する会 会長 北澤 保


一九一〇年五月二五日、信州松本署で「爆発物取締罪則違反」による宮下太吉をはじめ新村忠雄、管野スガ、古河力作、そして漢方薬等の薬を砕く器具藥研を貸した新村善兵衛、宮下に頼まれブリキ缶をつくった新田融が相次いで逮捕されていった。当初は信州爆裂弾事件として扱われていたものを、日露戦争・韓国併合をめざす第二次桂内閣のもと元老山県有朋が「非戦・平和」を唱える幸徳秋水を中心とする社会主義者撲滅への手がかりとして、刑法七三条(大逆罪)を強引に適用し、長野地方裁判所三家検事正から松室検事総長の指揮を仰がせ、六月一日神奈川県湯河原の停車場で幸徳秋水を逮捕し、その後全国各地において数百名の社会主義者の取り調べを開始した。最終的に「大逆罪」二四名、幇助罪二名が時の権力者の犠牲者として処罰されました。身分制度の厳しい江戸幕府を倒し、新しい日本政府に期待した明治政府も特権階級の覇権主義が支配し、それを否定する社会主義者たちが一部過激分子の行動を利用され、庶民のささやかな初期社会主義(現代では誰もが当然と考える社会)まで踏みつぶす、フレーム事件であったことは、現在は誰もが疑う余地のない事実となっています。
坂本龍馬は、その時代を切り開く革命家であり、ヒーローでありましたが、幸徳秋水は、ジャーナリスト・文学者で、その時勢に直接手を下す革命家ではなく、思想家の統領として、国民主権を訴えた指導者でした。世界大戦争も、当時の列強国ロシア・イギリス・フランス・イタリアでなく北アメリカを相手とし、一〇年後から、三〇年又は五〇年以内に起こるであろうと明言されていました。
その予言どおり三五年後に第二次世界大戦へと突入しています。それは、日本政治が一部権力者の帝国主義を掲げ、世界の列強国をめざす時代に生きながら、毅然と国際的視野に立ち政治を「主権在民、非戦・平和、相互扶助」に命をかけて唱え、立ちはだかった人として、現代にも生き続ける人として評価されています。一九一一年一月二四日午前八時六分市ヶ谷刑場で露と消えて一〇〇年、今日ここに集う人の心の中に、脈々と生き続ける主権在民、反戦・平和の幸徳秋水の思想を互いに継承しようではありませんか。
秋水の地元四万十市中村では、四万十市長田中全氏を実行委員長として、区長会、商工会議所、商店振興会、文化協会など一二団体で実行委員会を結成し、以下の年間計画を立て実施に向けて取り組んでいます。
一月二三日山泉進大逆事件の真実をあきらかにする会事務局長の記念講演、そして北辰旅団の「大逆百年の孤独」上演、翌二四日一二時三〇分から墓前祭、その後参列者による「大逆事件の一〇〇年を語る」交流会を開催、五月二九日基調講演とシンポジュウム、八月、鎌田慧氏による「坂本清馬」の市民大学講演、九月二四日大逆事件関係者による「大逆事件サミット」、九月中旬「幸徳秋水特別展」を開催する事としています。現代の世相にも幸徳秋水の思想「反戦・平和・人権・環境」まさに通ずることが多くあります。私たちは、「現代に生きる幸徳秋水」のこころざしを継いで地域から頑張ってまいります。最後になりましたが貴集会の盛会をお喜び申し上げます。
              幸徳秋水を顕彰する会(四万十市) 会長 北澤 保


○    連帯のメッセージ ・・・ 

森近運平没後百年記念事業実行委員会 委員長 坂本忠次、副委員長 森山誠一

 諸般の事情により、われわれの集会の「開会のあいさつ」をもって、国会内集会への連帯のメッセージとさせて頂きます。

 森近運平没後百周年記念集会(二〇一一年一月二三日)
森近運平の生きざま・没後百年の真実
   -シンポジウム(講演とパネル討論)午後1時~4時、井笠地場産業センター-

= 連帯のメッセージ =
 明日=二〇一一年一月二四日は、わが郷土・井原市高屋出身の先覚者-社会の貧困克服と不正義の一掃を願い、理想社会の実現をめざし、とりわけ「真実の農事改良」を探求し実践した社会運動家-森近運平(明治14=一八八一~明治44=一九一一)が、「大逆事件」拡大方針の犠牲となり、無実の刑死[明治44年1月24日午後1時45分]を遂げてから百周年の当日に当ります。
 半世紀前の森近栄子(運平の実妹)・高知の坂本清馬の「再審請求」の訴えは司法の厚い壁を崩せなかったとはいえ、そのとき掘り起こされた数々の貴重な歴史的証言や資料から、彼の無実は今や定説であり、今日的見地からは、むしろ「正義・人道・平和」の実践者として、ことに産業組合(現在の農協・生協の前身)の普及奨励や先進的な温室園芸の先駆的取り組みをした郷土の先人として見直され、顕彰されるべき人物であります。
 貴重な『郷土の果樹園芸史』を独力でまとめた井原市七日市の園芸家佐能源治氏も、森近運平を郷土の果樹園芸の先覚者として、高く評価しております。
 運平の出身校である岡山県立農学校(現・高松農業高校)の『高農百年史』(一九九九年九月)は、運平の生涯を詳しく紹介し、その生きざまを高く評価し、悲運の生涯を惜しんでいます。これより先(昭和37年)、同校同窓会は運平復権を決議しています。
 運平の全生涯の著作・論文・その他の遺稿は、井原市出身の吉岡金市・森山誠一・他編『森近運平研究基本文献』上・下(同朋社出版、一九八三年刊)として、文部省の出版助成を受けて公刊されています。これを読めば、額に汗して働く農民や労働者が幸福に暮らせる社会の実現をめざして一生懸命だったことがよく分かります。
 また、先年完成を見た『井原市史』は、その近現代の史料編(平成15年3月刊)で、森近運平関係の書簡資料を一〇点紹介しておりますし、近現代の通史編(平成17年3月刊)では、「森近運平と大逆事件」に十数頁をあてて彼の先人としての積極的活動を叙述し、冤罪の痛ましい悲劇にふれております。そして、井原市教育委員会が編纂した井原歴史人物伝『郷土が生んだ偉人たち』(平成20年1月刊)では、「教育・社会に尽くす」項に森近運平をとり挙げています。郷土でも漸く、その評価が、高く見直されつつあるやに窺われ、喜ばしいことであります。
 広く中央の学界に目を向けますと、日本学士院賞の受賞者で古代史研究家だった佐伯有清(一九二五~二〇〇五)は、若き日の柳田国男[農政官僚として出発し、のち日本民俗学を確立した文化勲章受章者]が書き留めたメモにふれて、森近運平は、柳田の進歩的な「産業組合論」の数少ない理解者であったこと、そして森近らが処刑された日、同情の念をもって「此日幸徳等十二名刑ニ遭ふ」としたためていることを紹介しています。おそらく柳田は「自説に賛成してくれた、ただひとりの人間ともいえる森近運平」に「思いを馳せ」たのだろうというのが、佐伯氏の判断であります。
 なお地元では、八十周年から「森近運平を語る会」(初代会長・大塚宰平。第二代・久保武。第三代・坂本忠次)が地道な顕彰活動を続け、今日に至っております。

 このように研究と理解の深まりつつある森近運平ではありますが、郷土・井原市では、その評価や顕彰がまだまだ十分とはいえません。同じ「大逆事件」犠牲者のうち、幸徳秋水の郷里中村市[現・四万十市]では市当局や議会あげての顕彰が行われ、大石誠之助の紀州新宮でも新宮市当局や議会の名誉回復決議や名誉市民に推挙する運動が展開されています。森近運平の地元としては、何はともあれ、再評価と顕彰に向けての一層の啓発の努力が重要と考えます。具体的には、市民や市外からの訪問者に、森近運平の生家や住居・温室の場所をきちんと表示し、説明版を建てること。そして顕彰パンフレットを作って、いつでも配布できるようにしたいと考えています。
 なお一昨年六月、幸いにも、運平の妻の実家(浅口市佐方・弓削家)に保管されていた八百点をこえる貴重な新資料が陽の目を見ました。このなかには、彼をよく知る後輩や同志からの、無実を信じる注目すべき書簡類が多数含まれております。
 この百周年の機会に、森近運平の素顔・生きざま・夢について、理解を深めて頂き、心ある皆様の一層のご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。
  平成23年=二〇一一年一月    森近運平没後百年記念事業実行委員会
                         委員長・坂本忠次、副委員長・森山誠一

(以上は、福島みずほ事務所でまとめたものであり、文責は福島みずほ事務所にあります)
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